9月のはなし
9月に入りました。
朝や晩に、時おり涼しい風が吹いたりして、すこしほっとしますね。
そういえば、夏のあいだスラムダンクがいちども回ってきませんでした。かわりに、
職場の人がふしぎなまんがを貸してくれるので、それを読んでいます。
そして、9月からまた新しいことをはじめてみようかなとおもっています。
ひとつは、ジャイアンツファンになることです。今までどこのチームのファンでもなかったので、とても新鮮です。
手始めにジャイアンツIDというのを登録してみたところ、メールが時々届くようになりました。そのうち試合を観に行けたらいいなあと思っています。
もうひとつは、銭湯通いです。今住んでいるところの近隣に、スーパー銭湯含め4カ所くらいあるので、時間をみつけては行ってみています。今日、既に3つ目に行ってきました。暑さと冷房で、なんとなくだるくなりがちですが、あっつい風呂やサウナに入るとだいぶ体が軽くなるような気がして、すっかりはまっています。
8月の終わりに
8月も気付けばもう終わりに近くなってきました。
夏休みの宿題ではないけれど、ここのところ繰り返し浮かんできたテーマ(愛、居場所、逃避、孤独)について、まとめてみたいと思います。
・自分のこころの中にある愛情を表現することは、必ずしも相手に何かを求めることにはならない。それは相手に対する強い肯定となりうる。
・根っこのところで自分を肯定する。それが自分の居場所。
・自分の心のなかの居場所に逃げることは、ポジティブな行為ともいえる。心のなかの居場所は、他者にもつながっている。
・孤独でいることが、誰かの居場所をつくる場合もある。孤独だからこそ他者に対してできることがある。
さっぱり意味分からんでしょうか。そしたらすみません。わたしとしてはひまがあれば考えて、たどり着いたひとつの地点です。
またさまざまな経験をして、考えが深まるといいです。
その他、この夏の思い出としては、やっとサウナに行ったことです。サウナはなかなかすばらしいところでした。しかも家から徒歩圏内にいいのがありました。
この夏しそびれたこととしては、あるうなぎやさんに高いうなぎを食べに行くつもりだったのですが、どうやら行けずじまいになりそうです。しかしサウナと同じように、またタイミングが来るかもしれません。
次に自分へ問いかけたいテーマとしては、強い絆とゆるい絆というのがあります。
またじっくり考えてみたいと思います。
逃避について
今日は逃避について書いてある本を二冊読んでみました。
あまり自分の言葉ではまとまらなかったので、読んでいてこれはと思った文を書き留めてみます。
*したいことをするためには、人に意見を求めてはいけないのです。-レイモン・ジャン
*世間が非難する部分を育てるべきです-ジャン・コクトー
*誰とも分かち合えないのは、当たり前のことです-ロドリゴ・ガルシア
*距離をおいた深い愛情は、やわらかに孤独感をなだめてくれます-イェーツ
*生きている意味は、一人ひとりの人間が感じとる熱い想いのなかにあるのです
山口路子「逃避の名言集」より
*僕が勧めたいのは2つ。
土俵には上がらないこと
どこにもしがみつかないこと
*自分専用の避難場所を持っておくというのは、いいもんです。
文句なしに大好きな場所
ほっと落ち着ける場所
大勢の中なのに、一人になれる場所
すぐに行ける場所
*一人になって自分を知る
いろんなところに行って、いろんな人と出会う
人との出会いがあれば自分の成長もあって、新しい自分にも出会える。
出会ったことで成長させてくれる人を、なんと呼ぶのか。呼び方は、なんでもいい。
*自分を守ってくれるお守りのような存在が心にいること。それが自分の居場所。
大崎洋「居場所」より
自分を守ってくれるお守りのような存在というのは、大崎さんにとっては、亡くなったお母さんだったそうです。
私にとってはどうかなあと考えてみたけれど、両親とはまたちょっとちがうかなあという気がして。本当の本当に、心から安心して信じられるような存在。自分のことを、何があってもわかってくれる存在。私は、そうとう疑い深い性格なのか…そんな存在はないような気もして。。強いていえば、近所の山とか木とか(笑)仏像とか。まあ、そんなんでもいのか。。結局、自分自身なのかなあという気もします。
逆に自分自身が、誰かの居場所になれたらいいなあという気はします。ということはいま書いていて気付いた自分の気持ちです。書くことで、本当にいろんなことを発見できます。
ということは、ここも私にとってのひとつの居場所なのかもなあ。という気がします。
愛と孤独について
少しあいてしまいました。
そして重めなタイトルとなっております。
さらに、逃避、執着なども、最近よく考えるテーマです。
愛情というものは、いつのまにか心のなかにあって、ふとしたときに気づいて、じんわりあったかくなる。そのようなものではないでしょうか。
愛というのは、求めるものではなく、既に自分のなかにあるものだと、いつかどこかで読んだことがありますが、ほんとうにそうだなあと思います。
もし、誰かに愛を打ち明けることがあるとするならば、そこには多少なりとも、相手からの何らかの反応(共感、共有といったもの)を、求めるきもちがあるように思います。(ただ、それは別に悪いことではなく、そこから何かが生まれることもあるように思います。)
では、もし、誰にも打ち明けず、自分の心の中だけに愛情をとどめておくとしたら。ずいぶんと孤独なのではないか。わたしは、孤独への恐れを、感じずにはおれません。
しかし、孤独というものは、結局のところ、避けては通れないものだということも、最近分かってきました。孤独は前提だ、と谷川俊太郎さんも言っていたような気がします。
孤独を受け入れ、孤独と向き合い、孤独を楽しむことができたとしたら。そのとき、純粋な愛情に、わたしの心は満たされるのでしょう。
一方で、それは一種の逃避ではないか。そのような気もします。傷つくことや、失敗をおそれて、自分の殻にこもるようなイメージは、今までの私としては、不本意な気もしました。
逃避や、孤独についてのとらえかたを、すこし、プラスの方向に変えていく。
殻にこもるのではない、開かれた孤独。チャレンジ精神のある逃避。
なんじゃそりゃ。という気がします。
しかし、そういうものがあるとしたら。また、新しい道が開けるのではないか。具体的には、どんなあり方なのか。考えていきたいと思います。
勝ち負けについて
最近、自分への問いかけシリーズが気に入っています。書くことで、考えがすこしまとまり、自分のものになるような気がします。今日は、勝ち負けについて書いてみます。
ちょっとしたきっかけで、ここのところプロ野球のジャイアンツの試合結果だけを毎日チェックするという謎の習慣にはまっています。
何対何で勝ったか負けたかということだけ、寝る前とかに見ています。今のところ、何の役にも立っていません。
毎日見ていて分かってきたことは、勝ったり負けたりしているということです。ずっと勝ち続けることもなければ、ずっと負け続けることもない。得点は、その時により、いろいろ。そして月曜日はお休みのようです。
人生のさまざまな局面で、勝ったとか負けたとか感じることって誰しもあるのではないでしょうか。あまり意識しすぎるのもどうかと思いますが、最初から、勝ち負けから逃げてしまうというのも、なんだか逆に勝ち負けを意識しすぎているようだし、仙人のようになれたらよいのですが、何かしら執着心のようなものがなかなか捨てきれず、勝敗に、心乱され、振り回されてしまうことも、多々あるように思います。
でも、長い目で見てみると、野球の試合結果のように、勝ったり負けたりなので、振り回されすぎることはないのかなあと思います。
ただ、ジャイアンツが勝ったり負けたりなのは、日々勝利のために努力を続けているからであって、やっぱりあきらめてしまったら、負け続けるのだと思います。
だから、執着もするし努力もするけれど、結果としては、勝ったり負けたり。それで当然なのだなあと。振り回されそうなときは、そんなふうにとらえられたらいいなあ、と思います。
問い その2
タイトルがいまいちですが、自分の中にいまだ明確な答えがなく、自分に問いかけているテーマのようなものについて書いています。
今回は、コミュニケーションの方法についてです。
さまざまな世代の人に接していると、世代により、また人により、いろいろだなあと感じます。
私にとっては、自分より上の世代(親くらい)だと、わりとシンプルでわかりやすいです。ラインとかもするけど、あくまでも顔を合わせて直で話すのがメインで、それがすべて。電話とかもよくつかいます。
同世代は、ちょっとわからなくなってきています。たぶん、「よくわからない人」になってきているのではと思います。
それより下は、もっとわからないです。
バイト先に20代の女の子がいて、とてもフレンドリーに接してくれます。どうも、お店のまかないのインスタを通じて、仲良くなれそうだったので、もっぱら閲覧用で持っていたアカウントでフォローしてみたら、フォローしてくれたのですが、今のところ、たったひとりのフォロワーさんです。
いちど、「若いころなにしてたんですか~」と聞かれたことがあり、仕事も転々としていたり、全く今につながらないことをしていたりしたので、なんて言えばいいんだろ?と思い、「うーん、ぷらぷらしていた」「軟式テニス部だった」とか、答えてみました。自分を知ってもらうというのは、なかなか難しいことだなあと思いました。
しかし、過去というものは、自分の中では、長々と語られることもありますが、本当はその程度の説明でちょうどよいのかもしれません。
せっかくなので、今まで、投稿もほぼしていなかったのですが、時々、自分がいま、何に興味があるのかということを発信して、新しいコミュニケーションの方法にも慣れていきたいなあと思っています。
問いかけ その1
最近、自分に問いかけていることのひとつに、「がまんは美徳か」というのがあります。
がまんが美徳とされる時代は終わっていると思いますが、まだまだ、がまんが美徳とされた時代を生きてきた人たちがたくさんいるので、まだまだ、その感覚が社会にはあるように感じます。わたしも、ずっとがまんをしてきた人の話などを聞いたり、がまんをしている人を見て、「えらいなあ」などと思うことがあります。
しかし一方で、なんだかがまんしなきゃいけない世の中って全然楽しくないし、そういうのはもう終わりにしないと変わっていかないよな、ということも感じています。
だから、がまんをしてきた人やがまんをしている人はえらいと思うけど、やっぱり楽しいほうがいいかな、と思います。
一方で、がまんをしない人というのは、実際まわりの人からすると厄介で困ることもあるのですが、「がまんをしない」というのもひとつの美徳かもしれないと最近思うことがあります。がまんをしない人ってのもそれはそれでえらいよなあと。
じっと黙って自分を抑えてがまんをするよりも、どうしたらがまんしなくてもよくなるのか、考えて、動く、努力する、発言する、っていうのがいちばんいい力の使いかたなのかな、と思います。